お鷹の道・本多家

2018年12月4日

お鷹の道・真姿の池湧水群

江戸時代に尾張徳川家の御鷹場に指定されていたことにちなみ、この崖線下の湧水が集まり野川にそそぐ清流沿いの小径は「お鷹の道」と名づけられました。現在は遊歩道として整備され、四季折々の散策路として人気があります。国分寺を代表する名所として親しまれています。

本多家はこの地で農家を営んできました。

本多俊一さんのお話

・昔からこの家では、井戸は作ったことがない。湧き水で賄っていた。池は裏手にある。井戸はこの辺はみんな作ったことない。近代になってから作っているうちはあるけど、その前の時代は、井戸掘る技術も大変だったから。水道ができた時は水道は引いた。下水道できて、それからはどんどん良くなった。

・今は畑ばかりだが、田んぼもやっていた。でも田んぼは、ちょうど畑も忙しいときなので大変。この辺の田んぼはドブ田って言って深くてぬかる。野川が暴れたんだろうと思うよ。だから深いんだよな。それで肥料が多いかというとそうでもない。水っけが多いから、すごくいい米が取れるわけでもない。高度成長期になると下水が田んぼに入って、稲がみんなバカになっちゃう。実が入らずスカスカになる。下水がみんな田んぼに流れ込んじゃうので、石けん水がすごかった。それでお米が臭くなる。売れないし食えない。それで、昭和36年くらいに田んぼはやめた。今みたいに機械を使うわけじゃなく、種まいてから一本一本植えて、それから手で刈って。だから畑より先に田んぼがなくなった。田んぼだったところの方が割と早くいろんなものができた。柚木のあたりなんかもそう。一気に宅地なんかになった。

・お寺さんは府中。府中の方まで田んぼだった。

・江戸時代なんかははけの雑木林でみんな炭を作ったらしい。

・庭に樹齢200年以上の大きな金木犀があって、俊一さんは子供の頃よくてっぺんまで登って、怒られた。でも怒られるたんびに登って、親が自分を探してるのを上からよく眺めたよ。

・はけは崩れたことはない。

・昔はお蚕も飼っていた。

・竹は住んでいると大丈夫。空き家にすると生えてくる。

・本多家は、延宝6年(1678年)に初めてこのあたりの検地があった。その時には記載されていた。その前からあったかもしれない。この辺は水があったから国分寺ができた。えらい坊さんだって、水がなきゃダメだ。昔の人は口伝えに聞いて、ここにしたんだろうと思う。多摩川が近くて、崖があって水が湧いていて、武蔵路に近かった。

・母屋は茅葺き屋根にカバーをしている。昭和36年ごろ、カヤを物置に積んであったんだが、物置に火をつけられたことがあった。それで、茅がなくなっちゃったので、それでカバーをかけた。それ以来、葺き替えてない。昔は茅葺きを、地域のみんなでやっていたが、職人もいなくなってしまったのでできない。ただ壊すのは簡単だけど、作るのは大変だから、残しておいたら何かの役に立つだろうと思っている。

・東経大のワサビ田も本多家のものだった。

・本多町は坂の上にあるのが新田で、こっちが親村。昔は全部繋がっていた。

・はけの上はみんな雑木林だった。ただこの辺りは下から吹き上げてくる風が冷たいので、国分寺駅の北側にみんな分家に出した。この辺りは寒い。

・空襲の記憶はある。この家すれすれにB29がきた。中央線を目印にくる。日立めがけて本多のあたりに落とされた。中嶋飛行機が一番やられた。戦争も、もう少しもう少しと思って頑張った。そういう教育だった。

・カメラマン井上さん参加(井上さんの実家は井上園というお茶屋さん。本多家のお茶も扱っていた)。この辺の農家さんは、畑の垣根にお茶を植えていたり、お茶畑も持っていた。それを収穫すると、小金井の井上茶園に持って行ってお茶にしてもらう。お茶がめというのがあった。8月火入れをした。

清水牛乳というのが旧青梅街道五日市あたりにあって、近くの小学校に毎日配達していた。清水牛乳も大きかった。新田開発の前からあるうちだから横にも広かった。

需要と供給という意味では、この辺りは農家も大きいので、その庭木を整えるのに、植木屋さんが増えた。瓦屋さんなんかも多くて職人を出した。四谷の大名屋敷なんかにもこの辺りから職人が行ったらしい。日野のあたりでも多摩川で朝鮎をとって、新宿に持っていくと鮎を売る店があってものすごいお金になったらしい。そもそも、このあたりは御鷹場で幕府の土地。その頃から本多の家はあった。その頃のことはわからないが、お鷹狩りは三鷹のあたりまででこの辺は、一泊しないと江戸まで帰れないので、そんなには来ていないのではないかと思う。ただ、何かあると、宿泊所にしたり、おもてなしをしたりしていたのだと思う。

・崖線の裏山はかつては手入れしてた。綺麗にして下草集めて肥料にしたりした。今はどこのうちでもだいたい東京都が相続の時に買っている。伐採なんかは東京都が定期的にはやっている。だから落ち葉を堆肥なんかにするのはうちの周りのだけ使っている。税務署では肥料を買えば経費になるが、落ち葉を使ったんじゃ経費にならない。その仕組みがおかしい。

・本多家はリオンの向こうまで土地はあった、戦前の領地買収で持って行かれた。リオンの前は小林理学研究所といって軍事産業の研究なんかもしてたらしい。太平洋に浮かんでいる敵の戦艦を探知する研究なんかもしてた。その研究を利用して補聴器や魚群探知機などになった。そういう研究が軍の力で飛躍的に進化した。農薬会社もそう。殺虫剤も、毒ガスの研究なんかから発展している。ただ自然で作ったらなんでも虫とか出るんだよ。日本は人や家畜なんかの糞を肥料に使うから、戦後アメリカ軍は野蛮って言って、関東村で水耕栽培をした。※関東村は、代々木にあった米軍施設が東京オリンピックの選手村として使用するため、現在の調布飛行場周辺、警察大、外語大のあたりに移転してきた。米軍施設と米軍関係の住宅(通称:ワシントンハイツ)を総称して関東村と呼んでいた。今頃になって、水耕栽培なんて言ってるけど、昔からあった。

本多農園
担当:鈴木、野口

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