三鷹市大沢の里

2018年10月17日

大沢の里

かつて農村であった三鷹の原風景を今もなお留めています。江戸時代に作られた水車や、明治35年に建てられた古民家があります。湿生花園内にはホタルを発生させる為の水路や水田があり、初夏になるとホタルが飛んでいる姿も見られます。

榛澤義夫さん(蛍の里)のお話

・もともと代々住まわれている方が「蛍の里」の発起人。それに新しい方がだんだん賛同。30周年になった。

・議員の榛澤シゲカズが環境のいい場所だったので、戦後、野川がどぶ川になった際、七中の子どもさんたちと始めた。蛍が出たのが昭和50年代後半。自分たちのふるさとの自然を守ろうと63年に集まってこの村が発足。

・田んぼは地主の箕輪さんとミヤガワさんのものだった。年をとって農業をやれないから業者に土地を売ってしまおうかと相談があった際、この環境を残した方がいいから行政に買ってもらったらどうかという話をした。たまたま小学校の5年生の教育課程に稲づくりがあったのを思い出して、稲作りの体験をと話したら、いいだろうということになった。

・翌年平成5年に多摩ライフ21に、三鷹に年間通しての催しがないからやってくれと言われてやった。翌6年から市の方でやっていただけるということに。7年に安田市長に買ってもらった。

・三鷹は緑と水の公園都市というのを基本構想にしているが、きっかけは大沢から。

・昔は大沢は豊かな農村という感じ。調布飛行場ができて変わってきた。昭和12~3年頃から買収を始めた。軍ではなく東京府が。私のところも畑などたくさんあったが全部とられた。宅地まで。だんだん工場や飛行場にとられていった。

・大沢には水車は6か所くらい。下から、まんじぐるま、えびさわ、はやさわぐるま、しんぐるま、おおぐるま、それから個人の水車がひとつ。ということは田んぼがあって米や畑からとれる麦がたくさんあったんだと思う。

・こいのぼりは上げなくなっていたので、使っていないのをいただいたらけっこう集まった。最初上げたら風にみんな飛ばされた。「こいのぼりの開き」になってしまった。ビニールの壊れないものを買うようになった。

・蛍祭りをやったら人が大勢来た。9時終わりだけど終わらない。交通の便がよくないのでバスに乗り遅れる人がいたり、田んぼに落ちた人もいる。それで期間を決めて、1週間、どうぞ自由に見てくださいという形になった。千葉で養殖をやっているところから譲っていただいた。それより先にいたけど、数が少なかった。5年くらい前からは自生のホタルだけになった。

・大沢は農家100軒あった。今は1000~3000軒。10代くらい続いているうちがほとんどらしい。

・わさびは手車で江戸に運んで、帰りは新宿で遊んできたという話を聞いた。

・わさびは手間がかかる。石を洗わないといけない。水も豊かじゃないと。今は実は深井戸から汲んでいる。それはわさび田というより、どちらかというと水田のために。

・崖線から水はどこでも出ていた。大沢は名前の通り湧水は多かった。

・子どもの頃は湧水は多かったけど、宅地化やアスファルトの道路、下水に水が流れて湧水がなくなった。野川は今はけっこう水があるのが、まえは全然なかったし「どぶ」だった。ゆすり蚊が多かった。

・子どもの頃は野川で水遊びをした。うなぎをとっていた。獲れる魚はみんな食べられた。だんだん水が汚れた。特に上流に砕石工場か何かができて、それを洗う水が真っ白の時期があった。国分寺の方の電車庫の排水とか。

・水争いはなかった。水が豊かだった。

同席:藤橋多一郎
ナビ:伊東光則(三鷹市議会議員)
河村孝(元三鷹市副市長・紹介)
担当:野口、大内、安田

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