はけの考古学

2019年1月18日

林徹先生のお話

・東京みたいな都市は地形の改変が激しいが、このあたりは非常に古い状態を残している。そういう意味では、縄文人が見ていた景色を自分も見れるので、いいなぁというイメージはある。

・8年ほど前に小金井市東町に来た。緑が好きなので、はけだけでなく、自然環境がよいので選んだ。当時は家のまわりに木や植木畑、草地、空き地がたくさんあったが、あっという間になくなった。すべて住宅になってしまって残念。

・土地の歴史や由来については住んでいる人でも知らないことが多い一方で、役所の担当者より市民の方が一番情報、色んな面白いこと知っていたりもする。ソースは市民にあるのかなと思う。講演終わったあとに「ここに遺跡がありますよ」なんて、市民が知らないことを教えてくれたりもする。そういうアプローチがなければ、専門家だって分からないことが多い。非常に大事だ。

・竪穴式住居をつくり村になっているのははけ上が圧倒的に多いが、はけ下は掘ったらたくさん遺跡が出てくる。時代によって上をやめて下に移った時代もある。縄文後期の寒くなった時期は、上から遺跡が減り、下に出てくる。はけの下は暖かい。昔からそうだったんだなとよく分かる。旧石器時代から、下にも生活の痕跡がたくさんある。遺跡は、野川をはさんで両側にある。

・一番有名な旧石器時代の野川遺跡は、野川の南側、現在の野川公園の新前橋のあたり。まだまだ見つかっていな遺跡がある。

・いま「武蔵野樹林」に原稿を書いているところ。今みたいな話をまとめている。編集担当に、はけの分かる撮影ポイントを聞かれたが、考えてみればほとんど開発されて崖線が分かるところがない。野川公園~武蔵野公園付近にしか残されていない。そういう意味でもここはよいところだ。

・野川沿いは、上から下まで本当に遺跡が多い。世界中、川のそばには遺跡があるが、ここだけめっぽう多い。日本中、武蔵野台地含めてみても、ものすごく多い。なぜだろう、と。暮らしやすい、だけではない魅力があったのだと思う。ひとつは私は景観だと思っている。縄文時代の富士山はいまの富士山と形が違うが、見えたことは確かだろう。

・景色がどうして大事かというと、当時の人たちにとってカレンダーがすごく大事。お日様がどこからのぼってどこへ沈むのか、星の位置がどうだとか、縄文時代には四季があったので、自然の恵みをいただいている生活の中で、この時期からこれが採れるとかの目安になる。日本全国で縄文人はそういうことをしていたらしいと言われている。景観というのはすごく大事な要素。住居を選ぶなら、見晴らしのよいところがよかったのではないか。最近の学会でそんなことが言われている。美しい、気持ちよい、というのもあったと思うが、カレンダーの要素も大きかったのでは。

・神田川、善福寺川とは違い、景観がよいことから、ここに人が集まってきたのかもしれない。 あとは、今とはくらべられないほど水量が多かったこと。交通の面でも、丸木船で川をのぼったり下ったりできたので、モノ、人、情報が動いていた。魚がたくさんいた。鮭がのぼっていたはず。秋川の近くから縄文の旧い時代の遺跡で前田こうちという遺跡から鮭の歯が山のように出ている。鮭の遺跡は野川からは出ていないが、水量がある大きな川だったことから、当然俎上してきていた可能性があると思う。50?60年前までは水量が豊かで、うなぎ、ますなど、色んな魚がいた。繭をゆでるのに大量の水が必要になる製糸業がさかんだったのも、野川の水量が多かったから。鴨下製糸場は、野川から水をポンプで汲み上げていた。水が枯れたのでやめたという話を聞いた。

・今やってることが続いていければいい。最近講演を依頼されることが増えた。自分の知っていることは限られているが、それでも一般の方は知らないことなので、出来るだけひとりでも多くの方にそれを知らせたい。少しおおげさだが使命というか、私に出来ることではないかと思っている。難しい研究云々よりも、そっちのほうかなと。やっているうちにこっちも一生懸命考えながらやるので、また新しい知見が出てきたりもする。学問にもつながっていくので、勉強させてもらっている面もある。これは死ぬまで続くんだろうと思う。 これからどうなるか分からないが、なるだけ現状のまま維持してほしい。自然が長いスパンで変わっていくのはいいが、人間がいきなりガンガン変えてしまうのはあまりうれしくない。

考古学者 国際基督教大学
担当:野口、安田

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