ムジナ坂

2019年1月8日

ムジナ坂

昔、この坂の上に住む農民が田畑に通った道で、両側は山林の細い道であった。だれいうことなく、この道をムジナ坂といい、暗くなると化かされるといって、怖がられ遠回りした。

といわくのある坂道です。今でも周囲は木々が鬱蒼としていて、ケモノ道の雰囲気を残しています。

ムジナとはアナグマのことですが、地域によってはタヌキ、ハクビシンのことだったりもします。民話ではキツネ、タヌキと並んで人を化かす妖怪として登場したりもするようです。

富永一矢さんのお話
富永さんはムジナ坂の脇に昔からお住いの方です。作家の大岡昇平が富永家と親交があり、戦後寄寓していました。

・「はけ」は固有名詞。現在のはけの森美術館あたりの渡辺さん宅のことを「はけ」「はけんち(はけの家)」と呼んでいた。

・湧き水をためた池があり、そこで野菜を洗ったりお米を研いだり、おむつを洗ったりしていた。14-15人集まり、井戸端会議をする社交場だった。

・大岡昇平の「武蔵野夫人」に記されている『土地の人はなぜそこが「はけ」と呼ばれるかを知らない』は、まさにその通り。小説が有名になって「はけ」という言葉が広まり、「はけの道」と名付けられた。昔はリヤカーが一台やっと通れる幅で、誰も歩いていないような、農家が使う道だった。

・小金井で田んぼがあったのはここだけ。農家としては特権階級だった。坂上と坂下で格差があり、坂上に嫁にいくことはなかった。府中の商家などへ嫁いだ。結婚を許されないカップルが雑木林で首を吊った。

・戦前、土地の人と移り住んできた新住民が、お互いに調和してやっていた。諍いは聞いたことがない。商売もできないようなへんぴなところに普通の人は来ない。文化人が多く、田舎の良さがわかっている人が移り住んできた。土地の人はあたたかく受け入れる土壌があった。不思議なところ。ちっとも便利にならなかったことがよかった。のんびりしていた。

・このあたりはほじくるとやたら土器が出てきた。小学生のとき金属の刃物を発見した。先生に見せたら持って行かれてしまい、その後どうなったか分からない。

・渡辺さんは農家だったが、道から斜面を上がったところに屋敷があった。農家としては非常にめずらしい。農作物をつんだリヤカーを屋敷に運ぶのが大変だった。そこがほかの農家と違っていた。

・戦前、「小橋さん」という品の良いおばあさんが、お付きの方と一緒に住んでいた。純日本風の広い平屋のお屋敷で、庭は芝生。湧き水を引いた池があって魚を飼っていた。そこに「魚雷投下」などと言って石を投げて遊んでいた。おじいさんに連れられて遊びにいくと、見たこともないような上品な和菓子をごちそうになった。上流階級の方だったのだろう。下の名前は分からない。

・ムジナ坂は、タヌキやイタチが通るけもの道。いつその名が付いたのかは分からない。昔はよくタヌキにだまされた。家の軒にぶらさがって、しっぽで戸を「トントン」とたたく。誰か来たと思って「はーい!」と急いで行くと誰もいない。母に「また騙されたね」とからかわれた。何度もそんなことがあった。

・戦中はタヌキやウシガエルも食べた。タヌキ汁は美味しかった。キツネ、ヘビ、ウサギは美味しくない。

(「国分寺崖線そして、「はけ」のこれからに関して、どんな想いがありますか?道路計画はどう思いますか」の質問に対して)
今のまま残してほしい。都市計画がきちんと出来ていない。STOPをかけるのは今しかない。

大岡昇平さんの想い出
大岡さんの姿は覚えているが、顔を見たことがない。一日中歩き回り、帰ってきて執筆する、という繰り返しだった。 鮮明に記憶しているのは、南側の居室に立ち、じっと富士山を眺めていた後ろ姿。戦地から生還し、学生時代になじんだこの地を再訪した感慨にふけっていたのではないか。

担当:安田

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