貫井のはけ上、はけ下

2019年2月4日

荒畑ふみおさん、隆さんのお話

・生活用水は1キロくらい汲みに行きました。水は貴重でした。飲み水は家の井戸でした。母は関野町から来まして、向こうは用水の水が流れていたので、嫁に来たての頃は水の使い方が荒いと言われていました。

・はけを下って行くということは、遠かったのでありません。

・はけは等々力の方までつながっています。等々力渓谷はけっこう深いです。

・渡辺ゼンイチさんは「はけはけ」と言っていました。一時議員をしていました。

・井戸は10mくらいでした。植物が水を吸うので井戸が枯れることもありました。

・た:はけは急坂なので、坂をリヤカーでのぼるのが大変でした。

・はけは崖線全体を指していました。くぼみのところは「谷戸」で。ただ、普段は坂上、坂下と言っていたように思います。

・うちでは松は防風林で植えていました。松は庭には必ず植えるものでした。造園に使われたことが多いです。アカマツとクロマツではクロマツが風に強いです。建築には油が多くてあまり向きません。殿ヶ谷戸庭園などを歩くと、いいところに松が植わっています。カシも防風林に使われました。ケヤキは関東ローム層の赤土に合っているらしいです。用材にはあまりケヤキの伸びのいいのはだめだといいますが、カシやケヤキは硬いし、いろいろ使われていますね。クヌギは平地林です。クヌギやナラやエゴは雑木林として平地に植えます。

・野川のあたりには小金井でも水田がありました。府中ほどの規模ではないですが。あとは畑。麦だとか。うちでは1/3が畑、1/3が桑畑、残り1/3が平地林でした。

・もともとが持っていた八町歩の畑はおおよそ今の学芸大・陸軍技術研究所になってしまった範囲。全部買収されました。終戦後返すという法律ができましたが、結局一部でした。その頃は売るのは3円~高くても5円、買ったのが15円でした。畑地の方は借りました。父は大変な苦労をしたと思います。土地を借りてなんとか生きてきたことを忘れるなと言われました。

・ふ:私は次男なんですが、兄は農地を買収されたりがあって工業関係に行っきました。

・ここはおそらく享保年間に入植しました。1700年代。玉川上水ができる前です。桧原の方から出てきらしいです。養蚕がうまかったようで、それで財をきずいたと。50人ほど雇っていました。

・た:貫井の向こうの方のトンネルは、当時はものすごい怖かったです。山賊や獣でも出そうで。

・ふ:このへんは米がないからご馳走というとうどんでした。

・ふ:はけの上と下では、付き合いは今ではお祭りくらいのものです。お寺さんの付き合いがある家とない家がありました。向こう(下)の方が、本家が多く有力者が多かったです。

担当:野口、椿、横田